令和5年度 「芦屋大学公開講座」開講
3月8日(金)に芦屋市民センターにおいて『芦屋大学 公開講座』(芦屋大学・芦屋市立公民館 主催)を開催しました。今回は、芦屋大学臨床教育学部教育学科の阪本美江教授が「歴史を物語る学校資料-奈良女子高等師範学校附属小学校時代の資料に着目して」というテーマで講演を行いました。
学校資料とは、学校に関するあらゆる資料のことです。文書類だけではなく、考古資料や児童・生徒の作品等も含みます。当時学校で作成された資料(文書)には、当時の教育や子どもたちの様子だけではなく、社会の状況も克明に刻まれていることから、まさに貴重な歴史資料であるといえます。今回はとくに、奈良女子高等師範学校附属小学校時代の文書資料に記された「空襲の記録」に着目し、学校資料の特徴と魅力が紹介されました。
講演第1部では、本題に入る前に、附小の歴史や「大正新教育」に基づいたユニークな教育が紹介されました。附小は明治44年開校ですが、二代目主事(校長先生)による「学習法」は、今のアクティブラーニングにも繋がる理念を持ち、現在の附小でもその伝統が受け継がれていることが紹介されました。そのような附小には、開校以降作成された膨大な文書資料がほぼそのままの形で学内に眠っていることや、酸性紙で作成された同校資料には激しい劣化が生じていることについても説明がなされました。
附小資料(平成30年8月撮影)
以上を踏まえて、講演第2部では、昭和20年1学期の「日誌」の記録に基づいて、当時の「奈良空襲」の状況が詳しく説明されました。奈良や京都は「ウォーナーリスト」により空襲を免れたと認識している方が多いですが、「日誌」を確認すると、昭和20年6月1日の法連町(佐保国民学校)、法華寺町界隈への空襲(焼夷弾)をはじまりとして、何度も被害に遭っていたことが確認できます。昭和20年1学期の「日誌」だけでも、56日も空襲/警戒警報が発令されていた記録が残されており、参加者の方々にも「日誌」(コピー)を実際見ていただくと、大変驚かれている様子でした。
(附小資料平成30年2月撮影)
また「日誌」には、空襲の危険性がある中、当直教員が学校を隈なくチェックしていたこと、また、教員が防空頭巾の付け方を丁寧に指導する等、子どもたちの命を守るために奮闘していた様子も記録されていることについても紹介されました。さらに、「奈良空襲」があった場所について調べてみると、駅や飛行場等が集中して攻撃を受けていたことから、計画空襲(攻撃)だった可能性についても丁寧に紹介されました。
昭和20年8月15日の「日誌」には、教員全員が職員室に揃い「威儀を正して」「玉音を拝聴し奉る」、「我等の痛憤慟哭いたるところなく悲涙にむせぶのみ」との記録があり、翌日の16日には、「教育勅語」の奉読式が行われ、子どもたちを護国神社等に参拝させていた記録があることも紹介されました。
さらに、本土初空襲(昭和17年4月18日)、別名ドーリットル空襲では、東京、神戸等が被害に遭い、奈良は被害に遭っていないのにもかかわらず、「日誌」には「敵機来襲」の文言や、空襲警報が発令されていた記録が残っています。そこで、ドーリットル空襲の空路についても調べてみたところ、奈良市の上空をB25が飛んでいた可能性があり、参加者の皆様は驚かれている様子でした。
さいごに阪本教授から、以上のような貴重な記録が残されている学校資料が今後散逸・廃棄されることなく保存され続けること、また研究だけではなく子どもたちの学習教材としても活用されていくことが期待される、とのコメントがありました。
講演終了後、参加者の方から「知らないことが沢山あり、大変貴重な勉強になった」、「あの大変な空襲の中、こんなに丁寧に教員が日誌を記録していたことに驚いた」、「教員は子どもを守らないといけない、学校を守らないといけない、国を守らないといけない、といったいくつもの役割を担っていたこともわかった」、講演を聴いて「涙が出た」との有難いコメントをいただきました。